タイコ叩いて歌う平魚泳
静かな空間でウクレレを弾いたり、
詩を歌ったりしていたい。
そんな日々の欲求を、
近所の自然豊かな空間で
ウクレレスケッチとか、
ツイキャスライブとか、
行って満たしていますが、
大きな声で、思いっきり歌いたい!
そんな欲求もあります。
以前はそんな欲求ばっかりで、
駅前へ行って、
タイコを叩いて、
大きな声で歌っては、
空回りして、
通行人が通り過ぎ、
警察に注意されるて中、
満足や不満足を抱えつつ、
ラフに生きていました。
鶏が先なのか、
卵が先なのか?
時代が変化したのか、
僕が変化したのか、
僕らが変化したのか。
わからないけど、
なんか、
腹から、腰をグッと落として、
大きな声で歌う機会が少なくなりました。
対、世の中で処世していくのに、
必要性を感じないのです。
でも、
「自分」としては
とても必要に感じています。
ただ、そのエネルギーは
内に秘めるべきで、
10の器をもって、
6〜7のチカラで歌うと、
とても懐深く感じてもらえるんじゃないか。
と。
でも、その10の器を維持するためには、
10や11の力で
日々生きていないと、
器自体が小さくなってしまう。
ような氣がしてる。
やらなきゃな。と
いつも想っています。
でも、その、
けっこう大きなパワーを発揮する
タイコを叩いて歌う平魚泳が
お呼ばれする機会は
あまりなくて・・・。
自分としても、
わざわざこの暑い中、
汗をかいて、暑苦しく思われて、
人が引いていくことを
わざわざやろうとは
なかなか想えません。
*************
そして、
このエネルギーは
僕だけでなく、
今の日本の世の中から
消えたのかな?
なんて、
想ったりもしています。
だって、
「ロックンロール」
などと読んで、
刺激を求める音楽が
世界で流行ったわけじゃないですか?
そして、2000年くらいから
「癒し系」「ヒーリング」などと呼ばれる言葉が
世の多くに認知され始め、
爆発させて、何かを飛び散らかすより、
整え、調和していきたい流れの方が
大きくなったんじゃないかと。
それは必然で、自然で、
悪いわけではなく、
善い気付きだと想います。
むしろ、
あの饗宴狂乱の時代を、
「元気だった日本」
と呼ぶのは、
ちょっと違うんじゃないかな?
とも思います。
*************
同じ時期に移住してきた友人のはるちゃんが
こんな場を創りました。
その1周年記念に、
僕の「タイコの平魚泳」を求め、
声をかけていただきました。
久しぶりにタイコを叩きました。
思いっきり歌いました。
大きな声で響かせました。
そして、
なんだろ?
いいのかな?
・・・いいんだろうな。
最初のうちは、
ステージの前に座ってた人たちも、
数曲したら席を離れ、
けっきょく、
誰が聴いてくれているのか
わからない場に。
でも、
これ、いいんだろうな。
みんな好きなようにすればいい。
僕も出したいだけ大きな声で
好きな言葉を歌えばいい。
音量的には聴こえてるよね。
あとは好きなところで
好きなところを
聴いて、感じて、
踊ってもらえたら。
それがいい。
それでいい。
帰りの車で、
あそこでは大人しくしていた息子小学3年生が
「ねぇねぇ」「聞いて聞いて」と
いつもの全力の自分の話を始めました。
息子、子どもが元気だと、
親や、大人の立場は受け身になるので、
ついつい大人しく振る舞ってしまいます。
「若い人は元気だなぁ」
とか言って、
同等にはしゃがなくなります。
大きな声で
「ねぇ聞いて」と言ってきた矢先に、
もっと大きな声で、
「それよりもお父さんのこと聞いてよ」
なんて言ったら(言ってみた(笑))
とたんに機嫌が悪くなります。
・・・そういうことなんだな。
そういうことだったんだな。
僕が元気に、生き生きと、
大きな声で、堂々と生きたら、
他の人は
役割として、
受け身になるか、
乗ってくるか、
ぶつかってくるか。
暑い場所に熱さは求めないし、
寒い場所で縮こまってる時にも
熱さは求めない。
求めるのは
涼しい風と、暖かい日差し。
でも、
暑い日差しの中、
かつては
汗をかいて、
エネルギーを放出する楽しみを知っていた。
凍てつく冬の日に
裸になって叫ぶ楽しさを知っていた。
生きてく上で
そんな「必要性」もあるよね。
とも思うのでした。
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