平魚泳 Hirasakana Oyogu

声の音の響き

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中国の童謡「茉莉花」

2022.10.10

国東半島の長崎鼻で行われた
龍神花祭」。
ここへのイベント、即興演奏へ向けた、
会場へ向かう途中で、
タイコの練習をしておこうと、
人気もなく、氣持ち好く、大きな音で
タイコを叩ける場所を探しました。

 

生け花と創作神話、
そして、日中韓の交流も含めた
大分県の文化事業です。

 

一応、決め事としては、
ライブ生け花の作品完成後に
散華する間、
茉莉花」という中国の童謡を
日本語、中国語、韓国語で歌う。

 

という約束があるだけで、
あとは最初から最後まで即興演奏。

 

 

ウクレレ、笛、タイコの身体を創る

 

ここ何日かに渡って
ブログにも書いたように
道々での即興演奏なども
練習がてら、動画にupしたりもしてきました。

 

ウクレレ、そして笛も、
1音1音、どんな響きが起こり得るのか、
確かめながら練習してきました。

 

そして、
前日に現場に入って、
リハをしたとき、
笛やウクレレの鳴らすべき音は
だいぶ瞬間ごとにつかめる身体に
なっていたことは
実感できたんだけど・・・

 

タイコがダメだった。

 

ここ数ヶ月、
出番がなかったゆえに、
タイコの練習を怠っておりました。

 

身体が、
音の響きにノることは
出来てきていたのですが、
時の流れ=リズムに
ノることが
出来なかったのです。

 

なので、
ライブ当日の昼間は
一心にタイコを練習しよう。
と想っていました。
(だからウクレレスケッチを収録する
余裕がなかったのです)

 

名も知らぬ、
国東半島のよき場所を見つけ、
メトロノームで身体を創り、
だんだんと自然に声も出るように
なってきました。

 

そして、
こんな詩が、
出るにまかせ、生まれました。

 

 

どこぞの畑の畦道でタイコ叩いて謳う

 

 

本当の出まかせで歌ったのは
以前のこの日が原型。

思い出したように、
「あの時、何て歌ってたっけ?」
と、この日の演奏を確認してから
あらためて歌ったのです。

 

 

詩を見せるではなく、存在で

 

龍神花祭への出演の話をいただいた時、
主催の花使い阿南妙和さんからは、
僕がどんな音楽をするのか、
動画などを見ながら確認された後、
「歌曲ではない平魚」での出演を依頼されました。

 

もちろん、それでイメージは伝わりました。
僕も「言葉・詩」で上がる舞台ではないと
自覚していました。

 

 

言葉と音。響きで創られる現実

 

言葉とは
「コトの端」と解釈しています。

 

端っこか・・・と、
侮ってはいけません。

 

「端っこである」ということは
必ず、幹に、そして根にもつながっている。

 

「端っこが在る」ということは
その言葉で、
幹や、根が在る。ということを
証明している。

 

端っこで、しっかり波動を感じれば
コトの幹や根と
同じ存在なんだと、
氣付けるのです。

 

これは「存在」についての真理にも想われますね。

 

最初に言葉が在った。とか、
言った通りに現実が現れるとか、
いろいろ言われ、
本当にそのとおりだと想って、
僕も言葉を選んでいるのですが、

 

「そんなわけないだろ?」

 

という氣持ちもわかります。

↑以前もこんなことを言っています。
興味あったら読んでください。

 

きっと、
本当の「言葉の力」って
僕らが今使う日本語では
ないんだと想います。

 

あれやこれやと、
歴史が折り重なり、
文化的背景や、文化への殺戮などで変化して、
本来の「響き」が持つ力を
失ってしまっているんじゃないかと
常々考えています。

 

だから、
本当はもっと、
言っただけで世界が動くような
「呪文」と今は呼ばれるような
力を持つものが
「言葉」だったのじゃないかと
考えています。

 

「呪い」と言うと物騒ですが、
「祝う」晴れやかな言葉も
現実創造として
使えたはずです。

 

一般的な認識とは違いますが、
祝詞(のりと)って、「呪文」と
対義であり、同義なんだと想っています。

 

呪文=祝詞。
力は同じ。

 

それで、
失われたといえ、
失われた端の今、
使われているのが
今の「言葉」です。

 

概念的に考えず、
発音した、響きで
動くものは何かと感性を研ぎ澄ませます。

 

「あ」の響き、
「ん」の響き、
「る」の響き、
「い」の響き。

 

身体の何処が響くだろう?
世の何が動いただろう?
同じ響きで使われている言葉の共通点て
なんだろう?

 

具体的な検証は
次のブログで書こうと想います。

 

動画の詩を聴いておいてください。

 

「何を言っているのかわからなかった」

 

小2の息子がそう言ってました。

 

としごろになると、
分かろうとするのが人間なんだね。
「分けて」「在ろう」とするのが人間なんだね。

 

僕もそうなんだよ。

 

でも、
「存在」は
分けなくても在るんだよ。

 

ドやレやミに
分けなくても
音は在るんだよ。

 

でも、分けると
分かり易いんだよ♪

この記事を書いた人

平魚泳

ウクレレ弾いて、タイコ叩いて、笛を吹いて、歌う。詩人。音楽家。言葉の持つ力、音の持つ力を日々確かめています。

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